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【2024/11/24 20:47 】 |
独創と模倣の区別がつくか
突然だが、わたしは次のような経験をしたことがある。
中学生のあるとき、自分が思いついた化け物の絵をたくさん描き、友達に見せたことがある。
わたしは、それを全くの独創だと思っていたが、それを見た友達は「ずいぶんドラクエに出てくるモンスターの影響を受けているな」と冷やかした。
確かに、その絵を描いた時期、「ドラゴンクエストモンスターズ」をやっていたのだが、彼にそう言われるまで全く影響を受けていたとは気がつかなかった。それどころか、それは、色々小難しい本を読んでイメージしたもので、そんな低俗なゲームの影響ではないと言い張り、喧嘩になった。わたしは決して、心の中でも、対外的にも、ドラクエの影響と言うことを認めなかった。
さて、友達とわたしと、どちらの主張が正しかったのだろうか。常識的に考えて、わたしのことを一番よく知っているのはわたし自身であるから、わたしの主張が正しいように感じる。だが、一方で、わたしが無意識のうちに自分自身に嘘をついている可能性もある……。
いま、このことに関して、次のような思考実験をしてみたので、ここにメモをする。

昔々、土器を大量に作る文化が、ある島にあった。その人たちは、すべすべの模様がない土器を作っていた。ある時、その島に別の文化を持つ人々がやってきて、先住者と混在してすむようになった。彼らも土器を作るが、口縁部より少し下に、凸帯文を施す習慣を持っていることで、先住者とは区別された。
だが、新顔と同居する先住者の中の一人が、凸帯文を施した折衷式の土器を作り出した。そこに、文明国から来た文化人類学者が、こう質問した。
「なぜ君は、突然凸帯を施文するようになったのかね? 新顔たちの真似だろう」
だが、なぜかその先住者は次のように主張するのだ。
「いいや、これは僕のオリジナルの発想さ。確かに彼らの凸帯文とよく似ているが、これは村の近くに生えている竹の節をデザインしたものさ。最近、竹が増えているから、その強さにあやかってね」
文化人類学者は、どう反応すればいいのだろうか。彼が嘘をついていると判断するのか? だが、嘘をついているという明らかな証拠はない。どんなに、凸帯文土器に類似していても、制作者の主張する意図は、あくまで「竹をデザインした」ものなのだ。
ここに、伝播主義と進化主義の対立をかいま見ることが出来る。
おそらく、わたしが文化人類学者であるならば、新顔たちの土器の模様が「伝播した」と考えるだろう。「彼は、「竹」だ、と主張しているが、実際本人自身あまり自覚していないようだが、新顔たちの土器の影響を受けたのは間違いあるまい。何しろ毎日、凸帯文土器を見ているのだから」……それが普通の考えだろう。

だが、これには反証もある。
わたしが高校生の時、なぜか男性生殖器を連想させるケースに入ったグミが販売されていた。ふつう、いくら連想させるからと言って、制作者が男性生殖器をモデルにケースを作ったとは考えまい。たとえ、デザインした人間が男性で、放尿するときいつも男性生殖器を見ているとしても、だ。しかし、ある種の精神分析家ならば、「いや、このデザイナーは、無意識のうちに男性生殖器を模倣しているのだ。放尿するとき、風呂にはいるとき、つまり毎日それを見ているのだから、影響を与えない方が不可解だろう」
その精神分析家の考えは、少し変わっているが、筋が通っていないわけではないだろう。通俗的な精神分析の文脈では「性」こそが、人間の行動の最終審級だという話だし……。

つまり、何が、それのデザイン・文様に影響を与えたかなどは、如何様にも解釈できる、と言うことだ。そして、その解釈は人それぞれあって良いのだ……。それが、現在のわたしの結論だが、正しいだろうか。
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【2011/12/21 22:41 】 | 思索メモ | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
夏目漱石『明暗』
 かの、夏目漱石の『明暗』をようやく読破した。二ヶ月以上かかってようやく読み終えた計算になる。
 小説家を目指すものとして、夏目漱石の諸々の技巧は敬服するほかない。
ストーリーとして、何か派手なアクションがあるわけではない。ただ、主人公たちのぐちゃぐちゃとした内面を描いているだけだ。並の人が書いた文章なら、そんなの読んでるだけで気が滅入って、途中で投げ出してしまうに違いない。
 漱石の文章は、なぜだか読んでいてワクワクしてくる。なぜだろうか。
 小説は大きく二つの要素に分けることが出来る、と思う。内容と表面だ。内容がただ「夕立が来た後は快晴だった」という事実だけだとしても、「夕立は、彼の心に降る悲しみのごとくであった。だから、ひとしきり泣くと、そこには真夏の太陽のごとき熱い思いが残った」などと、文章に味付けできる。その味付けのことをここでは表面と呼びたい。
 漱石はそうした表面のプロだと思う。もちろん、職業作家はみな、当たり前にその力を持っているが、『明暗』を読む限り漱石はずば抜けている。あらすじに全く盛り上がりがなくとも、表面の力だけでここまで読者を引っ張れるのだ。
 
 最も、自分が今のところ目指しているのはエンターテイメント小説なのだから、あらすじもしっかりしないといけないのだが……。
【2011/12/11 10:12 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
直接経験について
人はなぜ、自らの直接経験を疑い得ないのか。
例えば、痛み。
自らが腕の骨を折り、激烈な痛みに襲われているとき、もしかするとこれは痛みではないかもしれないと、なぜ疑わないのか。
あるいは、よく晴れた夏の日中、澄み渡った青空を呆然と眺めるとき、なぜ、あの色は本当は青ではないかもしれないと疑わないのか。
いや、正確に言えば、疑うことは簡単だ。デカルトのように、全能の悪魔がわたしに「青でない色」を「青である」と信じ込ませている可能性はあり得るからだ。もっと端的に、幻覚を見ている可能性もある。
しかし、例え幻覚を見ているにしろ、いま、その感覚を「痛み」「青さ」と感じていることは、絶対に疑い得ない。
どうして、「痛い」という語の使用を誤っており、世間で言うところの「かゆみ」という感覚を、わたしは「痛い」と表現してしまっているのだと、通常、なぜ疑わないのだろうか。
他人が痛がっているとき、その周囲の状況(コンテクスト)から考えて、「あの人は痛がっているふりをしているはずだ」と考えることは可能だ。しかし、実際に、どう考えても痛みの生ずるはずのないときに、「痛み」が感じられたとき、どんなに周囲の文脈がそれを否定しようと、自分の感覚を否定することは出来ない。
それは、どうしてか。
【2011/12/03 12:31 】 | 思索メモ | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
規則への従い方についての規則
 昔、友達と文法について、次のような議論をしたことを覚えている。
 友達は、予備校の英語教師にこういわれたそうだ。
「いま、君たちは英文法の勉強をしているが、本当は文法など言葉にとって後付に過ぎない。いま、そしてこれから未来、文法規則にない話し方を英語のネイティブスピーカーがするようになったとしても、それは間違ったことではない。話し言葉の即興性は、文法に先立つのだ」
 友達は、それを正しいと思い、僕にそのまま伝えてくれた。
 それに対して、多分僕はこう答えたと思う。
「確かに、言葉の本質は即興性にあるのかもしれないが、それでも、全く規則に支配されない音が、言葉になるとは思えない。それは、意味不明の音の羅列だろう。やはり、何処かで文法は即興に先立っているのではないか」
 それに対して友達がどう答えたのかは思い出せない。(もちろん、高校生の自分たちがこんな堅苦しい言葉を使ってやりとりしたわけではないが、どうしても書き言葉にすると論文調の言葉になってしまう。お許しいただきたい)
 いま、高校時代よりいくらか視野の広がった僕には、次のような疑問が思い浮かぶ。では、言葉が最低限従うべき文法は、どこに存在しているのか。明らかに、人の脳内のある部分だろう。そして、コミュニケーションが全人類的に成立する以上、言葉が最低限従うべき規則は、全人類で共通でなければならない。もし、ある人の脳内に全く別の規則が存在しているとするならば、その人との会話は不可能だろう。
 だが、全人類共通の規則があるとして、その規則への従い方まで、全人類に共通していると言えるのか。ウィトゲンシュタイン流の例えを使うならこうだ。矢印は進行方向を示すという規則がある。みな、それに従う。だが、矢印の平らな方ではなく、尖っている方の向きが何かを指示していると人は解釈するのか。それについて人間の脳内に規則があるからだろう。だが、規則・規則の従い方・規則の従い方の従い方……、人間が言語を話す以上従わなければならない規則は無数にあるが、人間はあらかじめそれらを全て知っているわけではない。人間の脳は有限なのだから。
 だから、生得的な規則ではなく、教育で身につけた規則もあると言うことだ。だが、教育で規則への従い方を身につけるということは、自らの持つ生得的な規則への従い方も、教育によって自由に身につけることが出来るということなのだ。
「三角形」と聞いて、「△」と言う図を書くか、「▲」という図を書くか、「◇」という図を書くか、あるいは三角形の鈍器で相手の頭を殴るのか、それは教育によって身につくことなのである。そして、普通日本人ならばだいたいが「△」あるいは「▲」という図を書くだろう。鈍器で頭を殴る人は心を病んでいるとみなされる。だが、それは習慣に過ぎず、生得的な規則に従ったわけではない。
 どうして、人は頭の中にある有限の規則から、文脈に合わせた臨機応変の行動がとれるのか。
 考えられるのは、模倣、だろう。子供は大人の行為を模倣して、言語や、習慣を身につけていく。この文脈ではこのように行為するのだとか、この状況ではあいさつをするべきだとか。だが、人は自分が出会う文脈すべてを大人達から学ぶわけではない。にもかかわらず、人は、初めての状況でも臨機応変に対応できる。
 もう一度問おう。どうして人は頭の中にある有限の規則から、文脈に合わせた臨機応変の行動を取ることが出来るのか。規則がなければそもそも人は行為できない。だが、規則は有限である。
 さらに、こう考えることは出来るかもしれない。人は、ある状況におかれたとき、過去あった似たような状況を思い起こし、それと同じような対応をするのだ、と。その、状況が似ているかどうかの基準、すなわち類似の基準を人は持っているのだ、と。
 だが、それに対してもこう反論することが出来る。人は、過去の状況と全く同じ行為だけをする生き物ではない。むしろ、まさにその場の文脈に合わせて自分の行為を過去とは別のものに変えることが出来る。その時、どのような規則が働いているのか。
 例えば、過去に同様の状況である行為をしたため不快な目にあったから、その同様の行為をを避けようとする、そうした規則が働いているのかもしれない。だが、別の行為は無数にあるにもかかわらず、ある行為を人が選ぶのは何故か。
 メチャクチャな議論になってしまったが、多分、今までの議論から次のことが帰結するだろう。人間は、言葉で語り尽くすにはあまりにも複雑な構造をしている。人が従っている規則全てを抜き出してみるのは、人間業では出来ない。
 さらに言えるのは、人間のミス、言い間違い、勘違いなど悪いイメージを持たれている行為こそが、与えられた規則に従うことしかできないコンピュータにはない、人間の創造性の源泉だということだ。間違える能力のないものは、新しいものを生み出す能力もないということだ。
 
 
【2011/10/16 00:09 】 | 思索メモ | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
レヴィナスについて

 レヴィナスについての本を、立て続けに二冊読んだ。
  一つは、港道隆『レヴィナス――法-外な思想』講談社・1997年刊、もう一つが、熊野純彦『レヴィナス入門』筑摩書房・1999年刊である。港氏の本はある程度レヴィナスの思想に親しんだ人用のもの、熊野氏の本は文字どおりド素人でもある程度理解できる入門書といったところだ。
 しかし、どちらの本を読んでも、レヴィナスの思想について分かった気にはならなかった。それは、彼らの説明が悪いというよりは、レヴィナスその人の文章があまりにも難解過ぎるという理由によるだろう。もう一つの理由は、読んだわたし自身に素養がないからだ。レヴィナスについて本気で勉強するならば、「現象学」という哲学の一分野について深く理解しておかなければならない。なぜなら、レヴィナスは現象学的な道具立てを使って自らの思考を記述しているからだ。
 だが、レヴィナス理解を本当に難しくしている一番の理由は、多分彼が、語り得ないことについて語ろうとしているからに違いない。
 通常人間は、自らの認識する世界の中に存在する存在者一つ一つに、ある方向付けを与えている。存在者は対象であり、道具であり、糧である。例えば、今わたしの目の前にある時計は、道具であり、金属で出来ており、わたしの腕にはめて使用する。そうした方向付けを、現象学では「志向」と呼んでいる。わたしの前に現れ出るものは普く志向であり、それから逃れでることはない。端的に言って、われわれは世界に意味を与えて生きている。
 だが、レヴィナスは、そうした世界に志向が、意味が与えられる以前に遡ろうとした。 当然、意味が与えられる以前のことについて、通常の言葉を用いては何も語り得ない。意味が与えられる以前にも、わたしと世界は何らかの関係を持って存在しているはずなのだが。だから、レヴィナスは比喩に頼る。比喩は通常語り得ない性質のものを、語り得るものにする性格があるからだ。上記した二冊の本には、だからレヴィナス独特の沢山に比喩が登場する。「顔」、「愛撫」、「家」、「夜」、「不安」……。だが、レヴィナスはフランス語で文章を書いた思想家だ。フランス語に親しんでいないわたしにとって、その言語の高度な使い方である比喩を理解するのは、あまりにも難しい。これが、レヴィナスがわたしにとって理解しづらい一番の理由だろう。
 さて、にもかかわらず、レヴィナスの思想はわたしにとって魅力的なものに映った。その理由をわたしなりに解きほぐしてみようと思う。
 彼の思想の重要な柱と思われるもの。世界を、たった一人の観客が見ている、劇場のようなものと例えよう。その観客を、ここでは主体と呼ぶ。ウィトゲンシュタイン風にいうなら「主体は世界の限界であ」り、他者は劇場に現われる取るに足らない登場人物に過ぎない。世界は私の世界なのである。
 だが、人間が言葉を話す以上、主体は他者に食い込まれている。言葉を話す以上、世界は「わたしの世界」ではなく「われわれの世界」になるからだ。主体は、この世界がわたしのデタラメに解釈した世界ではなく、客観的に見ておおむね正しい世界であろうことを根源的な部分で想定している。(もちろん、何かの勘違いや、酷いときには幻覚という症状もあるのだが)客観的に正しいということを前提としなければ、主体は自らの話す言葉が正しいとする基準を持たず、従って主体は一言も発することが出来ない。言葉を可能とする条件は、他者に公示できることだ。
 ここでの言葉とは、話し言葉、書き言葉だけを意味するのではない。それは、われわれの行為、もっと言ってしまえばわれわれの生そのもののことだ。主体の生は、世界が客観的に正しいことを想定しなければ行為できない。客観的に正しいとは、自分と絶対的に異なる他者から見ても、世界が最終的には「こうである」ことを想定することである。
 つまり、主体が立ち上がる以前に、主体は一人ではないのだ。そこには他者がいる。これこそ、独我論を不可能にする理由だろう。
 間違っているかも知れないが、取り敢えずわたしは、レヴィナスをこう解釈しておく。

 しかし、主体が想定する他者は、主体が成立した後からでは、現象としてしか現われない。他者は、道具であり、糧であり、志向の範疇から飛び出すことはない。それは、SF小説で登場する異星人のようなものですら、そうなのである。
 だが、主体の想定から、他者は無限に後退する。主体は他者を解釈しようと不断の努力をするが、他者は主体の手から完全に逃れでてしまう。われわれが、超音波で世界を認識するコウモリの感覚を、どうあがいても理解できないように。
 そして、他者が逃れでてしまうこと、それこそが、逆に客観界を成立させる条件だと思う。無限に異なる他者が存在し、主体とコミュニケーションできること、それこそが、客観界の存在を微かに指し示している。
 その、無限の彼方に去ってしまう他者が、しかし、わたしに呼びかける。絶対的に異なる存在を受け入れよ、と無限に遠いところからわたしに呼びかけるのだ。主体は、その呼びかけに「はい、なんでしょう」と答える以外に選択肢はない。たとえ、相手が殺戮者であろうとも。「了解しました」こそが、根源的なのだ。
「了解しました」はしかし、両刃の剣だ。そこから暴力が始まるか、平和が始まるかは、さいの目を振ったときのように分からない。例え理性で平和を望んでいても、始まってしまうのは戦争かも知れない。あるいは、戦争こそが他者とのコミュニケーションの唯一の道となる場合もあるだろう。それを制御することは、主体には出来ない……。

 わたしはこのようにレヴィナスを解釈した。レヴィナスについての本を二冊しか読んでいないのに、何を偉そうなことを、と思われるかも知れない。それは正しい。これから、もっと本を読んで、自分の考えを修正していこうと思う。

【2011/10/09 19:57 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
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