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昨日、ソール・アーロン・クリプキ著『名指しと必然性』を読了した。
実はこの本、高校時代……つまり今からもう十年も前に購入し、ずっと読まずに本棚に立てかけてあったものだ。さすがに、高校生の僕にそんな頭脳も哲学的素養もなく、最初の数ページめくって断念していたのだ。 この度、なぜこの本を読もうとしたのかと言えば、今度書こうと思っていたSF小説のネタにしようと思ったからだ。そのSF小説は並行世界モノになる予定だった。僕は並行世界≒可能世界(クリプキの著作の用語)と漠然と思っていたから、こりゃあ資料としては最高だなと考えた。 しかし、クリプキの本はそんな空想科学的な発想とは一線を画していた。 ……、『名指しと必然性』を解説するには、様相論理学という分野について知らねばならないが、わたしは専門ではないのでここでの説明は避ける。 だが、「可能世界」という用語について説明しておかねばなるまい。可能世界とは、「菅直人が首相にならなかったかもしれない世界」のような、現実とは異なる他にあり得たかもしれない世界のことだ。 想定可能な全ての可能世界で成立している事態は、必然的な事態と言える。想定可能な可能世界のうち少なくとも一つの可能世界で成立している事態は、可能な事態と言える。そして現実世界で起こっている事態は、まさに現実的な事態と言える。 様相論理学は、これらの前提から公理系を展開していくわけだが……。 ただ、「可能世界」を、あたかも特殊な装置を使えば実際に観察することの出来る世界と考えるのは間違いだ(とクリプキは言っている)。可能世界とは、我々が言語を使用する上であくまで約定されるにすぎない。 さて、分析哲学の伝統として、「固有名」は、その固有名で名指される対象のもつ性質の束に還元されるという説が一般的だった(そうだ。僕はその点に関して調べていない)。朱元璋は明王朝を建国した人物だが、すると「朱元璋は残忍な人物であった」は、「明王朝を建国した人物は残忍な人物であった」と全く同じ文の価値をもつ、これがクリプキ以前に標準的な解釈だった。 ところが様相論理学の立場からすると、二つの文は必ずしも同値ではなくなる。なぜなら、明王朝を建国した人物が朱元璋ではない可能世界は想定可能だし、その別の人物が明王朝を建国した世界で朱元璋は乞食坊主をやっていたかもしれないからだ。 ここで、一つやっかいな問題が生ずるように見える。世界交差同定という問題だ。現実世界と、可能世界に存在する事物が同一だと判断できるためには何が必要か、と言うことだ。上記の例で言えば、朱元璋とほぼ同等の功績を挙げた人物と、もう一人の乞食坊主のうちどちらが朱元璋となるのか、と言う問題だ。 だが、クリプキはこれを擬似問題として退ける。固有名と可能世界は、我々が言語を使用する際に約定されるもので、それが我々のとなりに存在するかのごとく考えてはならない。我々が言語の使用の際に朱元璋として約定したのであれば、それがどんな性質を持つのであれ(本当にどんな性質を持つのであれとクリプキが言っているかどうかは不鮮明だが)、朱元璋なのである。 これは、五流SF書き(三流以下という意味)としては、極めてつまらない結論に思える。何しろ、可能世界は「実在しない」、それは「言語の使用上の問題に過ぎない」と言っているように聞こえるからだ。 だが、これは僕の直感なのだがクリプキの議論からは重大な問題が帰結しそうな気がする。つまり、我々の自我同一性も単に言語上の約定に過ぎないのではないか、と。それを論証するのは、今の僕には不可能なのだけれど。 上記のような議論の他にも、この本でクリプキは「アプリオリ、分析的、必然性」「アポステリオリ、綜合的、偶然性」についての区別や、本質主義という考え方に対して、重大な議論をしている。だが、はっきり言って僕の頭ではいまいち理解が出来なかった。 この本を読んで僕が感じたのは、当時のアメリカ(1970年代~1980年代)では、言語について分析するのが哲学である、と考えられていたと言うことだ。少なくとも、クリプキはそう考えていたに違いない。 現代の、最新の英米哲学は、どうなのだろうか。僕は、ほとんど知らない。 PR |
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