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【2024/11/24 20:54 】 |
レヴィナスについて

 レヴィナスについての本を、立て続けに二冊読んだ。
  一つは、港道隆『レヴィナス――法-外な思想』講談社・1997年刊、もう一つが、熊野純彦『レヴィナス入門』筑摩書房・1999年刊である。港氏の本はある程度レヴィナスの思想に親しんだ人用のもの、熊野氏の本は文字どおりド素人でもある程度理解できる入門書といったところだ。
 しかし、どちらの本を読んでも、レヴィナスの思想について分かった気にはならなかった。それは、彼らの説明が悪いというよりは、レヴィナスその人の文章があまりにも難解過ぎるという理由によるだろう。もう一つの理由は、読んだわたし自身に素養がないからだ。レヴィナスについて本気で勉強するならば、「現象学」という哲学の一分野について深く理解しておかなければならない。なぜなら、レヴィナスは現象学的な道具立てを使って自らの思考を記述しているからだ。
 だが、レヴィナス理解を本当に難しくしている一番の理由は、多分彼が、語り得ないことについて語ろうとしているからに違いない。
 通常人間は、自らの認識する世界の中に存在する存在者一つ一つに、ある方向付けを与えている。存在者は対象であり、道具であり、糧である。例えば、今わたしの目の前にある時計は、道具であり、金属で出来ており、わたしの腕にはめて使用する。そうした方向付けを、現象学では「志向」と呼んでいる。わたしの前に現れ出るものは普く志向であり、それから逃れでることはない。端的に言って、われわれは世界に意味を与えて生きている。
 だが、レヴィナスは、そうした世界に志向が、意味が与えられる以前に遡ろうとした。 当然、意味が与えられる以前のことについて、通常の言葉を用いては何も語り得ない。意味が与えられる以前にも、わたしと世界は何らかの関係を持って存在しているはずなのだが。だから、レヴィナスは比喩に頼る。比喩は通常語り得ない性質のものを、語り得るものにする性格があるからだ。上記した二冊の本には、だからレヴィナス独特の沢山に比喩が登場する。「顔」、「愛撫」、「家」、「夜」、「不安」……。だが、レヴィナスはフランス語で文章を書いた思想家だ。フランス語に親しんでいないわたしにとって、その言語の高度な使い方である比喩を理解するのは、あまりにも難しい。これが、レヴィナスがわたしにとって理解しづらい一番の理由だろう。
 さて、にもかかわらず、レヴィナスの思想はわたしにとって魅力的なものに映った。その理由をわたしなりに解きほぐしてみようと思う。
 彼の思想の重要な柱と思われるもの。世界を、たった一人の観客が見ている、劇場のようなものと例えよう。その観客を、ここでは主体と呼ぶ。ウィトゲンシュタイン風にいうなら「主体は世界の限界であ」り、他者は劇場に現われる取るに足らない登場人物に過ぎない。世界は私の世界なのである。
 だが、人間が言葉を話す以上、主体は他者に食い込まれている。言葉を話す以上、世界は「わたしの世界」ではなく「われわれの世界」になるからだ。主体は、この世界がわたしのデタラメに解釈した世界ではなく、客観的に見ておおむね正しい世界であろうことを根源的な部分で想定している。(もちろん、何かの勘違いや、酷いときには幻覚という症状もあるのだが)客観的に正しいということを前提としなければ、主体は自らの話す言葉が正しいとする基準を持たず、従って主体は一言も発することが出来ない。言葉を可能とする条件は、他者に公示できることだ。
 ここでの言葉とは、話し言葉、書き言葉だけを意味するのではない。それは、われわれの行為、もっと言ってしまえばわれわれの生そのもののことだ。主体の生は、世界が客観的に正しいことを想定しなければ行為できない。客観的に正しいとは、自分と絶対的に異なる他者から見ても、世界が最終的には「こうである」ことを想定することである。
 つまり、主体が立ち上がる以前に、主体は一人ではないのだ。そこには他者がいる。これこそ、独我論を不可能にする理由だろう。
 間違っているかも知れないが、取り敢えずわたしは、レヴィナスをこう解釈しておく。

 しかし、主体が想定する他者は、主体が成立した後からでは、現象としてしか現われない。他者は、道具であり、糧であり、志向の範疇から飛び出すことはない。それは、SF小説で登場する異星人のようなものですら、そうなのである。
 だが、主体の想定から、他者は無限に後退する。主体は他者を解釈しようと不断の努力をするが、他者は主体の手から完全に逃れでてしまう。われわれが、超音波で世界を認識するコウモリの感覚を、どうあがいても理解できないように。
 そして、他者が逃れでてしまうこと、それこそが、逆に客観界を成立させる条件だと思う。無限に異なる他者が存在し、主体とコミュニケーションできること、それこそが、客観界の存在を微かに指し示している。
 その、無限の彼方に去ってしまう他者が、しかし、わたしに呼びかける。絶対的に異なる存在を受け入れよ、と無限に遠いところからわたしに呼びかけるのだ。主体は、その呼びかけに「はい、なんでしょう」と答える以外に選択肢はない。たとえ、相手が殺戮者であろうとも。「了解しました」こそが、根源的なのだ。
「了解しました」はしかし、両刃の剣だ。そこから暴力が始まるか、平和が始まるかは、さいの目を振ったときのように分からない。例え理性で平和を望んでいても、始まってしまうのは戦争かも知れない。あるいは、戦争こそが他者とのコミュニケーションの唯一の道となる場合もあるだろう。それを制御することは、主体には出来ない……。

 わたしはこのようにレヴィナスを解釈した。レヴィナスについての本を二冊しか読んでいないのに、何を偉そうなことを、と思われるかも知れない。それは正しい。これから、もっと本を読んで、自分の考えを修正していこうと思う。

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【2011/10/09 19:57 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
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有り難いご意見
はじめまして
どうもはじめまして,chee-choffといいます.忍者サイトマスターの活字コミュから「レヴィナス」という文字を見つけてすっ飛んで来ました.

と言いつつ僕はレヴィナス著作を読んだことはありません.ただ「語りえぬものについて語る」ことは僕自身大変興味を持っており,うまく理解できないながらも本記事を興味深く読ませて頂きました.

もしやもうご存知かもしれませんが,レヴィナスについての本でしたら元仏文教授の内田樹氏をオススメします.僕は内田氏の著作から読書が好きになり色々と読みあさっていますが,いずれ氏の専門であるレヴィナスにたどり着きたいと思っております.

内田氏には「哲学は比喩を以て語るべし」という信条があるらしく,「身体への染み込み具合」が他の書き手にはない独特なものを感じます.伯爵の言われる「比喩」と内田氏の比喩がどこかで繋がっているかもしれません.

興味がおありでしたら,「レヴィナス三部作」で検索してみて下さい(なんか販促みたいですみません).

どうも,長文失礼致しました.
【2011/10/21 00:19】| URL | chee-choff #4fc070a518 [ 編集 ]


無題
 初めまして。コメントありがとうございます。
 僕がレヴィナスについての解説本を読んで感じたのは、絶対的な他性に主体は到れないということです。
 他者は、本来、わたしとは何の関わりもなく存在している。しかし、わたしの前に他者が現前した時点で、他者はわたしの単なる影(現象)に貶められる。それは暴力的な他者の解釈です。
 しかし、どれだけ必死に他者を解釈しようとしても、他者の他性に我々はたどり着かない。他者は無限に遠くにいる……。
 これは、自らのクオリアを抜き出して他者に提示することが出来ないという米国哲学と鏡像のような発想だと思います。
 内田樹さんのレヴィナス三部作、ぜひ読んでみたいです。今たまっている本(30冊ぐらいあるのですが)が消化できたら手をつけてみようと思います。
【2011/10/24 10:06】| | ブラックマンタ伯爵 #2ab012580b [ 編集 ]


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