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昔、友達と文法について、次のような議論をしたことを覚えている。
友達は、予備校の英語教師にこういわれたそうだ。 「いま、君たちは英文法の勉強をしているが、本当は文法など言葉にとって後付に過ぎない。いま、そしてこれから未来、文法規則にない話し方を英語のネイティブスピーカーがするようになったとしても、それは間違ったことではない。話し言葉の即興性は、文法に先立つのだ」 友達は、それを正しいと思い、僕にそのまま伝えてくれた。 それに対して、多分僕はこう答えたと思う。 「確かに、言葉の本質は即興性にあるのかもしれないが、それでも、全く規則に支配されない音が、言葉になるとは思えない。それは、意味不明の音の羅列だろう。やはり、何処かで文法は即興に先立っているのではないか」 それに対して友達がどう答えたのかは思い出せない。(もちろん、高校生の自分たちがこんな堅苦しい言葉を使ってやりとりしたわけではないが、どうしても書き言葉にすると論文調の言葉になってしまう。お許しいただきたい) いま、高校時代よりいくらか視野の広がった僕には、次のような疑問が思い浮かぶ。では、言葉が最低限従うべき文法は、どこに存在しているのか。明らかに、人の脳内のある部分だろう。そして、コミュニケーションが全人類的に成立する以上、言葉が最低限従うべき規則は、全人類で共通でなければならない。もし、ある人の脳内に全く別の規則が存在しているとするならば、その人との会話は不可能だろう。 だが、全人類共通の規則があるとして、その規則への従い方まで、全人類に共通していると言えるのか。ウィトゲンシュタイン流の例えを使うならこうだ。矢印は進行方向を示すという規則がある。みな、それに従う。だが、矢印の平らな方ではなく、尖っている方の向きが何かを指示していると人は解釈するのか。それについて人間の脳内に規則があるからだろう。だが、規則・規則の従い方・規則の従い方の従い方……、人間が言語を話す以上従わなければならない規則は無数にあるが、人間はあらかじめそれらを全て知っているわけではない。人間の脳は有限なのだから。 だから、生得的な規則ではなく、教育で身につけた規則もあると言うことだ。だが、教育で規則への従い方を身につけるということは、自らの持つ生得的な規則への従い方も、教育によって自由に身につけることが出来るということなのだ。 「三角形」と聞いて、「△」と言う図を書くか、「▲」という図を書くか、「◇」という図を書くか、あるいは三角形の鈍器で相手の頭を殴るのか、それは教育によって身につくことなのである。そして、普通日本人ならばだいたいが「△」あるいは「▲」という図を書くだろう。鈍器で頭を殴る人は心を病んでいるとみなされる。だが、それは習慣に過ぎず、生得的な規則に従ったわけではない。 どうして、人は頭の中にある有限の規則から、文脈に合わせた臨機応変の行動がとれるのか。 考えられるのは、模倣、だろう。子供は大人の行為を模倣して、言語や、習慣を身につけていく。この文脈ではこのように行為するのだとか、この状況ではあいさつをするべきだとか。だが、人は自分が出会う文脈すべてを大人達から学ぶわけではない。にもかかわらず、人は、初めての状況でも臨機応変に対応できる。 もう一度問おう。どうして人は頭の中にある有限の規則から、文脈に合わせた臨機応変の行動を取ることが出来るのか。規則がなければそもそも人は行為できない。だが、規則は有限である。 さらに、こう考えることは出来るかもしれない。人は、ある状況におかれたとき、過去あった似たような状況を思い起こし、それと同じような対応をするのだ、と。その、状況が似ているかどうかの基準、すなわち類似の基準を人は持っているのだ、と。 だが、それに対してもこう反論することが出来る。人は、過去の状況と全く同じ行為だけをする生き物ではない。むしろ、まさにその場の文脈に合わせて自分の行為を過去とは別のものに変えることが出来る。その時、どのような規則が働いているのか。 例えば、過去に同様の状況である行為をしたため不快な目にあったから、その同様の行為をを避けようとする、そうした規則が働いているのかもしれない。だが、別の行為は無数にあるにもかかわらず、ある行為を人が選ぶのは何故か。 メチャクチャな議論になってしまったが、多分、今までの議論から次のことが帰結するだろう。人間は、言葉で語り尽くすにはあまりにも複雑な構造をしている。人が従っている規則全てを抜き出してみるのは、人間業では出来ない。 さらに言えるのは、人間のミス、言い間違い、勘違いなど悪いイメージを持たれている行為こそが、与えられた規則に従うことしかできないコンピュータにはない、人間の創造性の源泉だということだ。間違える能力のないものは、新しいものを生み出す能力もないということだ。 PR |
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