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人はなぜ、自らの直接経験を疑い得ないのか。
例えば、痛み。 自らが腕の骨を折り、激烈な痛みに襲われているとき、もしかするとこれは痛みではないかもしれないと、なぜ疑わないのか。 あるいは、よく晴れた夏の日中、澄み渡った青空を呆然と眺めるとき、なぜ、あの色は本当は青ではないかもしれないと疑わないのか。 いや、正確に言えば、疑うことは簡単だ。デカルトのように、全能の悪魔がわたしに「青でない色」を「青である」と信じ込ませている可能性はあり得るからだ。もっと端的に、幻覚を見ている可能性もある。 しかし、例え幻覚を見ているにしろ、いま、その感覚を「痛み」「青さ」と感じていることは、絶対に疑い得ない。 どうして、「痛い」という語の使用を誤っており、世間で言うところの「かゆみ」という感覚を、わたしは「痛い」と表現してしまっているのだと、通常、なぜ疑わないのだろうか。 他人が痛がっているとき、その周囲の状況(コンテクスト)から考えて、「あの人は痛がっているふりをしているはずだ」と考えることは可能だ。しかし、実際に、どう考えても痛みの生ずるはずのないときに、「痛み」が感じられたとき、どんなに周囲の文脈がそれを否定しようと、自分の感覚を否定することは出来ない。 それは、どうしてか。 PR |
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