ここのところ、エマニュエル・レヴィナスについての本を読んでいる。それについては、今後読書日記に載せていくつもりだが、読んでいく途中で気がついたことがあったので、それを、メモ書き程度に残しておこうと思う。でないと忘れてしまうからね。
マンタのテーゼは「存在は存在者の性質ではない」、より厳密に言うなら「『存在すること』は存在者の性質だが、存在それ自体は性質ではない」である。
つまり、どういうことか。例えば、今わたしの目の前にコップがある。そのコップが並行世界のコップと入れ替わったとする。コップ同士の性質は寸分違わず一致すると考える。この時、少なくとも認識論的には何ら変化はない、変化にわたしが気がつくことはないはずだ。
では、このわたしが並行世界のわたしと突然入れ替わったとしたらどうか。もちろん、現実世界のわたしと並行世界のわたしに、性質上の差異はない。だが、現実世界のわたしは何かを失い、代わりに並行世界のわたしは何かを得た、と考えられるのではないだろうか。その、何かを「事実存在」とわたしは呼びたい。だが、事実存在は性質ではない。それは、性質だけの存在であるわたしに実質を与えるような意味での存在なのだ。
ひるがえって、コップの場合はどうか。存在者であるわたしが事実存在であるのなら、同じく存在者であるコップにも事実存在があると考えられる。つまり、コップが並行世界のそれと入れ替わった場合でも、コップは何かを失うはずなのだ。だが、その何かは語り得ない。ただ、事実存在として名指すしかない。
だが、「存在すること」は、存在者の性質である。いま、わたしの机の上に存在しているコップ、と言うときの「存在」は、存在者の性質を示している。これを、「性質存在」と呼ぼう。そして、「事実存在」について語ろうとどんなに努力しても、それは「性質存在」の不気味な厚みに遮られて、一言も発することが出来なくなってしまう。
この「性質存在」と「事実存在」の差異(本当は、両者の立っている次元が違うのだから比較することは不可能であり、『差異』という言い方は間違っている)に鋭敏だったのが、レヴィナスだと、今のわたしは解釈している。
そして、わたしがはじめて出会った哲学者であるウィトゲンシュタインもまた、こうした問、「何かが存在しているという驚き」に取り憑かれた人であると思う。
……、それよりも、最近不穏な空気がする。まもなく世界が滅亡するという間違った思想に駆られたカルト集団が、大規模なテロを起こす可能性がある。
わたしは人類存続への意志。それゆえ、あえて諸君に警告する。絶対にこのテロ行為を防がなくてはならない。
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