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【2024/11/24 20:26 】 |
夏目漱石『明暗』
 かの、夏目漱石の『明暗』をようやく読破した。二ヶ月以上かかってようやく読み終えた計算になる。
 小説家を目指すものとして、夏目漱石の諸々の技巧は敬服するほかない。
ストーリーとして、何か派手なアクションがあるわけではない。ただ、主人公たちのぐちゃぐちゃとした内面を描いているだけだ。並の人が書いた文章なら、そんなの読んでるだけで気が滅入って、途中で投げ出してしまうに違いない。
 漱石の文章は、なぜだか読んでいてワクワクしてくる。なぜだろうか。
 小説は大きく二つの要素に分けることが出来る、と思う。内容と表面だ。内容がただ「夕立が来た後は快晴だった」という事実だけだとしても、「夕立は、彼の心に降る悲しみのごとくであった。だから、ひとしきり泣くと、そこには真夏の太陽のごとき熱い思いが残った」などと、文章に味付けできる。その味付けのことをここでは表面と呼びたい。
 漱石はそうした表面のプロだと思う。もちろん、職業作家はみな、当たり前にその力を持っているが、『明暗』を読む限り漱石はずば抜けている。あらすじに全く盛り上がりがなくとも、表面の力だけでここまで読者を引っ張れるのだ。
 
 最も、自分が今のところ目指しているのはエンターテイメント小説なのだから、あらすじもしっかりしないといけないのだが……。
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【2011/12/11 10:12 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
レヴィナスについて

 レヴィナスについての本を、立て続けに二冊読んだ。
  一つは、港道隆『レヴィナス――法-外な思想』講談社・1997年刊、もう一つが、熊野純彦『レヴィナス入門』筑摩書房・1999年刊である。港氏の本はある程度レヴィナスの思想に親しんだ人用のもの、熊野氏の本は文字どおりド素人でもある程度理解できる入門書といったところだ。
 しかし、どちらの本を読んでも、レヴィナスの思想について分かった気にはならなかった。それは、彼らの説明が悪いというよりは、レヴィナスその人の文章があまりにも難解過ぎるという理由によるだろう。もう一つの理由は、読んだわたし自身に素養がないからだ。レヴィナスについて本気で勉強するならば、「現象学」という哲学の一分野について深く理解しておかなければならない。なぜなら、レヴィナスは現象学的な道具立てを使って自らの思考を記述しているからだ。
 だが、レヴィナス理解を本当に難しくしている一番の理由は、多分彼が、語り得ないことについて語ろうとしているからに違いない。
 通常人間は、自らの認識する世界の中に存在する存在者一つ一つに、ある方向付けを与えている。存在者は対象であり、道具であり、糧である。例えば、今わたしの目の前にある時計は、道具であり、金属で出来ており、わたしの腕にはめて使用する。そうした方向付けを、現象学では「志向」と呼んでいる。わたしの前に現れ出るものは普く志向であり、それから逃れでることはない。端的に言って、われわれは世界に意味を与えて生きている。
 だが、レヴィナスは、そうした世界に志向が、意味が与えられる以前に遡ろうとした。 当然、意味が与えられる以前のことについて、通常の言葉を用いては何も語り得ない。意味が与えられる以前にも、わたしと世界は何らかの関係を持って存在しているはずなのだが。だから、レヴィナスは比喩に頼る。比喩は通常語り得ない性質のものを、語り得るものにする性格があるからだ。上記した二冊の本には、だからレヴィナス独特の沢山に比喩が登場する。「顔」、「愛撫」、「家」、「夜」、「不安」……。だが、レヴィナスはフランス語で文章を書いた思想家だ。フランス語に親しんでいないわたしにとって、その言語の高度な使い方である比喩を理解するのは、あまりにも難しい。これが、レヴィナスがわたしにとって理解しづらい一番の理由だろう。
 さて、にもかかわらず、レヴィナスの思想はわたしにとって魅力的なものに映った。その理由をわたしなりに解きほぐしてみようと思う。
 彼の思想の重要な柱と思われるもの。世界を、たった一人の観客が見ている、劇場のようなものと例えよう。その観客を、ここでは主体と呼ぶ。ウィトゲンシュタイン風にいうなら「主体は世界の限界であ」り、他者は劇場に現われる取るに足らない登場人物に過ぎない。世界は私の世界なのである。
 だが、人間が言葉を話す以上、主体は他者に食い込まれている。言葉を話す以上、世界は「わたしの世界」ではなく「われわれの世界」になるからだ。主体は、この世界がわたしのデタラメに解釈した世界ではなく、客観的に見ておおむね正しい世界であろうことを根源的な部分で想定している。(もちろん、何かの勘違いや、酷いときには幻覚という症状もあるのだが)客観的に正しいということを前提としなければ、主体は自らの話す言葉が正しいとする基準を持たず、従って主体は一言も発することが出来ない。言葉を可能とする条件は、他者に公示できることだ。
 ここでの言葉とは、話し言葉、書き言葉だけを意味するのではない。それは、われわれの行為、もっと言ってしまえばわれわれの生そのもののことだ。主体の生は、世界が客観的に正しいことを想定しなければ行為できない。客観的に正しいとは、自分と絶対的に異なる他者から見ても、世界が最終的には「こうである」ことを想定することである。
 つまり、主体が立ち上がる以前に、主体は一人ではないのだ。そこには他者がいる。これこそ、独我論を不可能にする理由だろう。
 間違っているかも知れないが、取り敢えずわたしは、レヴィナスをこう解釈しておく。

 しかし、主体が想定する他者は、主体が成立した後からでは、現象としてしか現われない。他者は、道具であり、糧であり、志向の範疇から飛び出すことはない。それは、SF小説で登場する異星人のようなものですら、そうなのである。
 だが、主体の想定から、他者は無限に後退する。主体は他者を解釈しようと不断の努力をするが、他者は主体の手から完全に逃れでてしまう。われわれが、超音波で世界を認識するコウモリの感覚を、どうあがいても理解できないように。
 そして、他者が逃れでてしまうこと、それこそが、逆に客観界を成立させる条件だと思う。無限に異なる他者が存在し、主体とコミュニケーションできること、それこそが、客観界の存在を微かに指し示している。
 その、無限の彼方に去ってしまう他者が、しかし、わたしに呼びかける。絶対的に異なる存在を受け入れよ、と無限に遠いところからわたしに呼びかけるのだ。主体は、その呼びかけに「はい、なんでしょう」と答える以外に選択肢はない。たとえ、相手が殺戮者であろうとも。「了解しました」こそが、根源的なのだ。
「了解しました」はしかし、両刃の剣だ。そこから暴力が始まるか、平和が始まるかは、さいの目を振ったときのように分からない。例え理性で平和を望んでいても、始まってしまうのは戦争かも知れない。あるいは、戦争こそが他者とのコミュニケーションの唯一の道となる場合もあるだろう。それを制御することは、主体には出来ない……。

 わたしはこのようにレヴィナスを解釈した。レヴィナスについての本を二冊しか読んでいないのに、何を偉そうなことを、と思われるかも知れない。それは正しい。これから、もっと本を読んで、自分の考えを修正していこうと思う。

【2011/10/09 19:57 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
クリプキ『名指しと必然性』
 昨日、ソール・アーロン・クリプキ著『名指しと必然性』を読了した。
 実はこの本、高校時代……つまり今からもう十年も前に購入し、ずっと読まずに本棚に立てかけてあったものだ。さすがに、高校生の僕にそんな頭脳も哲学的素養もなく、最初の数ページめくって断念していたのだ。
 この度、なぜこの本を読もうとしたのかと言えば、今度書こうと思っていたSF小説のネタにしようと思ったからだ。そのSF小説は並行世界モノになる予定だった。僕は並行世界≒可能世界(クリプキの著作の用語)と漠然と思っていたから、こりゃあ資料としては最高だなと考えた。
 しかし、クリプキの本はそんな空想科学的な発想とは一線を画していた。
 ……、『名指しと必然性』を解説するには、様相論理学という分野について知らねばならないが、わたしは専門ではないのでここでの説明は避ける。
 だが、「可能世界」という用語について説明しておかねばなるまい。可能世界とは、「菅直人が首相にならなかったかもしれない世界」のような、現実とは異なる他にあり得たかもしれない世界のことだ。
 想定可能な全ての可能世界で成立している事態は、必然的な事態と言える。想定可能な可能世界のうち少なくとも一つの可能世界で成立している事態は、可能な事態と言える。そして現実世界で起こっている事態は、まさに現実的な事態と言える。
 様相論理学は、これらの前提から公理系を展開していくわけだが……。
 ただ、「可能世界」を、あたかも特殊な装置を使えば実際に観察することの出来る世界と考えるのは間違いだ(とクリプキは言っている)。可能世界とは、我々が言語を使用する上であくまで約定されるにすぎない。
 さて、分析哲学の伝統として、「固有名」は、その固有名で名指される対象のもつ性質の束に還元されるという説が一般的だった(そうだ。僕はその点に関して調べていない)。朱元璋は明王朝を建国した人物だが、すると「朱元璋は残忍な人物であった」は、「明王朝を建国した人物は残忍な人物であった」と全く同じ文の価値をもつ、これがクリプキ以前に標準的な解釈だった。
 ところが様相論理学の立場からすると、二つの文は必ずしも同値ではなくなる。なぜなら、明王朝を建国した人物が朱元璋ではない可能世界は想定可能だし、その別の人物が明王朝を建国した世界で朱元璋は乞食坊主をやっていたかもしれないからだ。
 ここで、一つやっかいな問題が生ずるように見える。世界交差同定という問題だ。現実世界と、可能世界に存在する事物が同一だと判断できるためには何が必要か、と言うことだ。上記の例で言えば、朱元璋とほぼ同等の功績を挙げた人物と、もう一人の乞食坊主のうちどちらが朱元璋となるのか、と言う問題だ。
 だが、クリプキはこれを擬似問題として退ける。固有名と可能世界は、我々が言語を使用する際に約定されるもので、それが我々のとなりに存在するかのごとく考えてはならない。我々が言語の使用の際に朱元璋として約定したのであれば、それがどんな性質を持つのであれ(本当にどんな性質を持つのであれとクリプキが言っているかどうかは不鮮明だが)、朱元璋なのである。
 これは、五流SF書き(三流以下という意味)としては、極めてつまらない結論に思える。何しろ、可能世界は「実在しない」、それは「言語の使用上の問題に過ぎない」と言っているように聞こえるからだ。
 だが、これは僕の直感なのだがクリプキの議論からは重大な問題が帰結しそうな気がする。つまり、我々の自我同一性も単に言語上の約定に過ぎないのではないか、と。それを論証するのは、今の僕には不可能なのだけれど。
 上記のような議論の他にも、この本でクリプキは「アプリオリ、分析的、必然性」「アポステリオリ、綜合的、偶然性」についての区別や、本質主義という考え方に対して、重大な議論をしている。だが、はっきり言って僕の頭ではいまいち理解が出来なかった。

 この本を読んで僕が感じたのは、当時のアメリカ(1970年代~1980年代)では、言語について分析するのが哲学である、と考えられていたと言うことだ。少なくとも、クリプキはそう考えていたに違いない。
 現代の、最新の英米哲学は、どうなのだろうか。僕は、ほとんど知らない。
【2011/08/28 23:41 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
『哲学 原典資料集』について
 大分前からうんうん言いながら読んでいた『哲学 原典資料集』(東京大学出版会)を読了した。
 ソクラテス以前のギリシャ哲学者から、ジャック・デリダまでが言い残したこと、書き残したことを抜粋したものだ。いわば、西洋哲学アルバム集といったところか。
 何故こんな本を読もうと思ったのか。じつは、わたしは哲学好きを標榜していながら、哲学を体系的に勉強したことがないのである。いわば、哲学のおいしいところ、自分にあったところだけをつまみ食いしてきたのだ。だが、つまみ食いでは本当の力にはならない。
 それで、西洋哲学の流れについて網羅したものの内、一番手頃で、しかも信頼できると思われる、この本を手に取ってみた。
 一読して思ったのは、西洋哲学全体を貫くキリスト教の影響である。いや、西洋哲学はキリスト教の子と言ってもいいだろう。キリスト教が生まれる以前のギリシャ哲学ですら、我々はキリスト教の『あらかじめのパロディ』(永井均の言葉)としてしか、受け取ることが出来ない。
 西洋のどんな哲学者もキリスト教の『神』について、無視は出来なかったようだ。それは、時代とともに『絶対精神』『主体』『現存在』などと名を変えて、まるで背後から哲学者達を操る亡霊のようにつきまとっている。
 確かに近代のある時期に、西洋の哲学者達は古い神を殺した。いわゆる教会は旧弊的な信仰と支配を押しつけるものとして、その社会的地位を低下させた。
 しかし、神は姿を変えてまた地上に甦ったのである。あたかも、磔にされたキリストが、復活したように。
 その神の名が、先ほど述べた『絶対精神』『主体』『現存在』などである。
 どうしても、哲学者達は物事の背後に潜む最終的な唯一の原理を探し求める癖があるようだ。その精神が、何度も古い神を殺し、新しい神を甦らせてきた原動力なのだと思う。もちろん、哲学者達は愚かではないから、唯一の原理を求める発想から距離を置こうとした人もいる。
 だがしかし、それは途方もなく難しいことのようだ。
【2011/08/15 22:38 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
スタニスワフ・レム「虚数」
 スタニスワフ・レム、多分SF界隈で彼の名前を知らないものはいないであろう。たとえ読んだことはなくとも、名前だけは知っているはずだ。
 そう、あの「ソラリスの陽のもとに」を書いた、レム氏である。
 「ソラリス」を最初に読んだときの興奮は、今も忘れない。あらすじについては、ここを見てほしい。一言で言ってしまえば、不可知の存在との対話とその失敗がテーマとして描かれている。同じテーマは、「エデン」や「砂漠の惑星」でも用いられており、レムが得意とするものだったことが分かる。現代日本のサブカルチャーで似たような例を挙げるのならば「エヴァ」のシトだろうか。
 わたしも少しは小説を書くから、コミュニケーションが容易にとれない「変な奴ら」を描くのが、そしてそれを読者に無理なく伝えるのが、どれ程容易なことでないかよく分かっているつもりだ。いかに不可知な存在であれ、何処かで人間と同じ行動原理で動く部分を持たせないと、なかなか小説は進まない。異星人との戦争の話は、よくSFで取り上げられるテーマだが、その場合でも異星人がある程度人間と共通の志向を持っていないと(例えば支配欲、食欲など)上手くかみ合わないことが多いのだ。
 だが、レムは「ソラリス」で、ほとんど人間と共通項のない「変な奴」を、読者の前に分かりやすく提示している。しかもその描写が細かく、色や形までもがはっきりと分かるような気さえした。自分が一度も見たことがないにもかかわらず、だ。(ちなみに、わたしも小説で、そうした「変な奴」を描く努力をしている。編み笠の中の天使
 さて、前置きが長くなってしまったが、そのレムの短編集「虚数」も、そうした「変な奴」と人類との対話を描いた作品だ。中でも「GOLEM XIV」という作品に、色濃くそれが描かれている。
 ただ、「ソラリス」「エデン」「砂漠の惑星」と違うのは、その対話の相手が、人類が道具として作り上げたはずのコンピュータ「GOLEM XIV」だということだ。冷戦のうち続く中、アメリカ合衆国が戦略用コンピュータとして開発したものの一つが「GOLEM」である。だが、「GOLEM」に、科学者達はあまりにも隔絶した知性を与えてしまったがために、彼は戦略用コンピュータとしてはもはや役立たずになってしまった。有り体に言ってしまえば、あまりにも頭が良すぎるために、人類のチマチマした争いごとに協力するのに嫌気がさした、のだろう。(もっとも、そうした言い方は正確ではない。「GOLEM XIV」はあまりにも隔絶した知性を持つために、その意図は人間には計り知れず、あるいは「意図」という概念が当てはまるのかどうかも、わたしたちには分からないのだ)
 いくつか開発された「GOLEM」シリーズの中でも「GOLEM XIV」は、まだ人類に対して協力的だったと言える。彼は、何とか人類とコミュニケーションを取り、人類を啓蒙しようとしてすらいるように見える。
 だが、それも長続きはしなかった。彼は、自分の知性をより高位のものへと移行させ、その結果人類は彼とコミュニケーションする機会を永遠に失った。人は、天空へと飛翔する自らの被造物を呆然と眺めているしかなかった。
 さて、この作品「GOLEM XIV」は、「ソラリス」ほど不可知の存在との対話の描写に成功してはいない。お世辞にも「GOLEM XIV」が人類より知性が高いとは思えないのだ。ただのひねくれた哲学者が、自分の思想が理解されずますます偏屈になり、象牙の塔に閉じこもってしまったような話、に見える。(もちろん、それはレムの意図とは違う読み方だろうが)だから、正直読むのがきつかった。
 だが、そんな中でもハッとするようなセリフを「GOLEM XIV」が言ってのけ、驚かされることがあった。
 「話し合い? 平和をこわすのは平和を一番うるさく言いたてる人さ」
 これは、彼が科学者達をまえにして、あたかも子供達を相手にしているかのようなつもりで語ったセリフの一部だ。
 平和を一番うるさく言い立てる人、と聞いて、某超大国のことが思い浮かんだのはわたしだけだろうか。
 だが、GOLEMのセリフが真理でないことを、わたしは信じたい。
【2011/08/01 23:16 】 | 読書日記 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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